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フェルメールとその時代

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フェルメールとその時代
大阪市立美術館
開催期間:2000年4月4日ー7月2日
主催:大阪市・毎日新聞社・毎日放送
サイズ:A4
表:ヨハネス・フェルメール <青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)> 1665-66年頃 オランダ・マウリッツハイス美術館


 肖像画とは、その本質において、対象モデルの忠実な再現ではない。いにしえの哲学者プラトンであれば、イデアの再現というであろう。モデルのイデア。いや、よりふみこんでいえば、モデルが体現するある種のイデアの図像化。理想化され、普遍化された対象。
 「ターバンの少女」は、まさに優美というイデアの図像化である。舌足らずな語をあえてつかえば、「モナ・リザ」が神秘の、ラファエロのマドンナが聖性の、ベラスケスの王族が高貴さの、それぞれイデア表出とおなじく。たぶん、ヨーロッパ絵画史上はじめて、フェルメールは「少女の優しさ」をイデアとして把捉したのではあるまいか。  (樺山紘一 『肖像画は歴史を語る』 新潮社 1997年)


 「真珠の耳飾りの少女」は珍しく肖像画的であり、見返り姿の構図も透視図法からは解き放たれ、単純明快である。異国風な青いターバンのラピラズリの冴え、たゆたうような眸、あどけない唇、そして大きく贅沢な真珠の耳飾りと単純な背景、「何も足さない、何も引かない」古典美の極致とも言える珠玉の作品である。 (中山忠彦 『名画のなかの女性たち』 生活の友社 平成20年)


 人物一人でこちらを見ているのは肖像画ということになるが、フェルメールにはそういう絵が七点ある。
 ふつうに肖像画と考えればいいのだけど、フェルメールの視線の緻密な関係が気になってからは、肖像画として片付けようとしても、そのこちらを見る視線がただの様式を外れて、どうも気になる。
 このターバンの少女も唇にわずかな隙間があって、ちょっとだけ白い歯がのぞいている。それが正面向きではない振り返りのポーズと相まって、ふとそこらにいる女の子のリアリティを生み出している。
 唇がきらりと光る。瞳がきらりと光る。耳の真珠もきらりと光る。この三点セット。それをターバンが強烈にくるんで結び合わせる。ごくわずかな要素で強く成り立っている絵である。 (『赤瀬川原平の名画探検 フェルメールの眼』 講談社 1998年)

by ephemera-art | 2017-03-01 00:00 | 大阪市立美術館