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ルノワール展

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オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展
国立新美術館 公式サイト
開催期間:2016年4月27日-8月22日
主催:国立新美術館・オルセー美術館・オランジュリー美術館・日本経済新聞社
サイズ:A3(二つ折りA4サイズ)
表:ピエール・オーギュスト・ルノワール <ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会>(部分) 1876年 オルセー美術館



 ムーラン・ド・ラ・ギャレットはパリの北、そのころはまだ郊外だったモンマルトルの丘の上にあった大衆酒場兼ダンスホールとして賑わっていた。踊りながら抱き合い、ささやき合いながら踊っている。そうした幸せそうな人々をルノワールは色斑の美しさで捉えている。このダンス場は毎日曜日の午後三時から真夜中まで開かれた。午後の柔らかい光に包まれて、ルノワールの世界は晴れやかで喜びにあふれている。
 ルノワールはこの戸外のダンス場に東京摺る人物に友人や知人、絵のモデルといった人たちを描き込んでいる。彼らは決して富裕階級とはいえないが、それなりにファッショナブルな身繕いをしている。
 ほんの少し前までまだ粉ひき風車が回っていたこの丘の風車小屋のそのわきで、コップワインとクッキーつまりギャレットを打っていたドゥプレさんは、風車小屋つまりムーランをダンスホールに改造し、その名もムーラン・ド・ラ・ギャレットと名付けた。当時、日曜には郊外へ出かけるのが流行していたパリの人にこれが当たった。
 ナポレオン三世は華やかな舞踏会を政治的に使い、第二帝政以後さまざまな舞踏会が事あるごとに催された。富裕階級は高級仕立てのオートクチュールの豪華なドレスで舞踏会や劇場へと出かけたが、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの午後の客である庶民にとっても、ダンスパーティーは最大の愉しみの一つだった。そのころから、ようやく庶民にもファッションは手の届くものとなり、社交のための衣装は産業としてのファッションを発展させた。
 この絵の中で女性たちが着ているのはサイドシルエットに特徴のあるバスル・スタイルのドレス、夏らしい白っぽい薄手素材でできている。男性は当時の流行だった黒いスーツスタイル。戸外だからそれぞれに帽子をかぶっている。いちばん礼儀にかなったシルクハット、。山が丸いのはいくぶんくだけたメロン帽(ソフト帽)。そして、このころ夏に流行していた麦稈製のカノチエ(カンカン帽)である。
 だが、女性の方に帽子をがぶっている人が少ないのが気にかかる。というのはこの時代は、午後の外出にちょっとした家の女性なら「必ず」帽子をかぶらねばならなかったというのにだ。ということからも彼女たちがそう良い家の女性とはいえない、あるいは自由奔放に生きていることが露見する。そんなことをとやかく言うほうがおかしいと、ルノワールは屈託なく明るく生きている人々を描いている。 (深井晃子 『名画とファッション』 小学館ショトル・ミュージアム 1999年)


 1870年代から1880年第代初頭までが、ルノワールの印象主義時代。本作は彼の印象主義時代の代表作です。作品の舞台、モンマルトルの丘はパリの北のはずれにあり、当時は迄葡萄畑や風車が残るのどかな田園風景が広がっていました。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、二つの風車が目印の開かれたばかりの書面的なダンスホールで、ここはお針子など若い娘たちと、労働者や若者たちの落ち合う場所でした。
 明るい日曜日の午後、若い男女がくつろぎ、しゃべり、踊る、画面からそのざわめきや熱気が伝わってくるようです。場面に活気を与えているのが、ルノワール独特の印象主義時代の手法である木漏れ日です。大胆な木漏れ日は人々の肩に、服に、地面に降り注ぎます。この人々に落ちる木漏れ日こそが人物画家らしいルノワールの特色です。印象派らしく影の部分には青や紫が使われています。画面いっぱいの、ゆらめく多彩な光の斑点をじっくりご堪能下さい。ここがこの作品の見どころです。
 ところが当時はこのような木漏れ日の効果は全く理解されませんでした。本作や部屋31にある「陽光を浴びる裸婦(Etutde.Torse,efette de soleil)」などの傑作は、「モデルは皆水疱瘡にかかっている!」と散々な言われようでした。フランスの大衆も批評家も実に保守的だったのです。
 本作では多くの人物で溢れかえるダンスホールの様子が、雑然と描かれているように見えますが、ここには秩序があります。踊る人物やガス灯の垂直線、背景奥の人物たちや建物の水平線、さらに前景中央の三人が古典的なピラミッドを形作り、この作品に安定感を与えています。
 この前景中央の帽子を被りかがむ美女は画家お気に入りの16歳のモデル、ジャンヌ、ベンチに座っているのがその妹のエステル、後ろ向きで美人姉妹と話をしているのが画家ピエール・フランク・ラミー、ジャンヌへ憧れの眼差しを向けているのが前景右端のカンカン帽をかぶったジョルジュ・リヴィエール、彼は大蔵省の役人で、日に大出世してルノワールの伝記を書くことになります。リヴィエールの横でパイプをくわえているのが画家ノルベール・ゲヌート、この三人の男性はルノワールの親友です。画面中景左側でひと際目立つカップルがいますが、女性はルノワールのもう一人のお気に入りだったモデルのマルゴ、男性はキューバ出身の画家ソラレス・イ・カルデナス。マルゴは当時のルノワールの恋人でした。
 このようにルノワールのの友人たちが総出演のこの作品では、人々は視線を交わし、温かい触れ合いを持ち、若い男女は青春を謳歌しています。ルノワール独特の華麗な木漏れ日が画面全体に散らばり、この光の斑点こそが、本作の幸福感や共鳴のもとです。
 ところで本作の画面が両端でぷっつりと断ち切られていることにご注目ください!ここで日本の浮世絵の断ち切りの構図が用いられています。これによって画面の外にまで情景が広がることが連想され、また臨場感が生まれます。木漏れ日の中の若者たちの歓楽図に、日本の浮世絵の影響が繋がる。何とお洒落なルノワールでしょうか! (有地京子 『オルセーはやまわり』 中央公論新社 2014年)


 ルノワールはサン・ジョルジュ街の家のほかモンマルトルのコルトー街十二番地にアトリエを持っていた。十八世紀の建物で、屋根裏の二部屋と一階の厩舎を借りている。「ブランコ」などにその庭が描かれた。そこで彼はダンス・ホールのムーラン・ド・ラ・ギャレットをテーマにした大構図の絵を構想した。経営者のドブレが七六年、ルノワールのために大仮面舞踏会を開いてくれた。この作品は「歴史の一頁、正確きわまりない、パリ生活を活写した貴重な記念物」(伝記作者のジョルジュ・リヴィエール)と言える。アンヌ・ディステルさんによれば、「ルノワールがここで、より小さなサイズの作品を通して積み重ねてきた経験を発展させているのは明らかだ。それは主に、フォルムの輪郭を明確にせずに色調で表現し、陰影も彩色するという、流動的、暗示的な技法の採用からなる。後に印象派をけなす人々がルノワールを攻撃したのはまさにこの点であった」。
 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は七七年の第三回印象派展に、ほかの二十点と出品された。仲間の画家ギュスターヴ・カイユボットが買い取った。彼は大金持ちで仲間に対するメセナ活動をした。印象派展の費用ももっとも多く負担している。かつてのバジールの役割を果たした人物である。カイユボットは自分のコレクションを国家に遺贈するという遺言状をつくって、死後、国家が引き取りをためらう場面もあったが、のちにオルセー美術館の貴重な財産となった。 (小島英熙 『活字でみるオルセー美術館』 丸善ライブラリー 平成13年)


 1877年の3回目のグループ展からは、印象主義の画家ではないドガの反対を押し切り「印象派の画家たちの展覧会」という名称になった。ルノワールは、この展覧会開催の準備に尽力し、カイユボットも資金を出して会場を手配した。そして、ルノワールが出品した大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を購入したのもカイユボットだった。この展覧会で一番の話題作だった。
 『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は、モンマルトルの丘にあった労働者階級が集った「ギャンゲット」である。ギャンゲットとは、市街にある大衆的な酒場のことで、ダンスや飲食も楽しめる娯楽場だ。川に面した場所にあることが多いのは、川遊びを楽しみ、そして川魚料理を食べながら屋外で過ごしていたためであり、市外にあったのは、当時のパリ市内だと飲酒の際に税金がかかったからである。週末になると無税で酒を飲むために、発展著しい鉄道を使って庶民がギャンゲットに集まって楽しんだのだ。ムーラン・ド・ラ・ギャレットがモンマルトルにあったのも、第二帝政時代のパリ大改造によって城壁が取り壊されるまでパリの市外地区だったためである。
 しかし、ルノワールが描いたムーラン・ド・ラ・ギャレットに集う人たちには、日々の労働の憂さを晴らしに来ている人々の苦労も苦悩もいっさいうかがえない。上層ブルジョワ階級出身のマネ、ドガ、カイユボットが労働者に対して向けたドライな視線と違い、ルノワールは労働者階級に対して常に温かい視線を注いでいた。人生の現実であり、闇の部分を肌身に感じていたルノワールだからこそ、あえて人生の喜びしか描かなかったのである。彼は観ていて楽しくなるような絵しか描かなかったのだ。
 ルノワールは『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』で、作品全体の色調を青のグラッシ(乾いた作品の表面に薄く塗る透明な油絵の具)を施して整え、深い輝きを表した。その結果、作品全体が幸福なオーラで満たされることとなったのである。
 その際、ルノワールはカンヴァスをムーラン・ド・ラ・ギャレットまで担いでいって現場で制作した。そして、これを基に大型のヴァージョンがアトリエで制作されたのだ。カイユボットが購入したのは、ルノワールがアトリエで制作されたものである。そして、現場で制作された小型ヴァージョンを購入したのが、税務官吏だったヴィクトール・ショケだ。
 ちなみに、この小型バージョンをバブル期の日本人が高額で競り落とし、もう1点所有していたゴッホの『ガシェ博士の肖像』(1890)とともに、「自分が死んだら棺桶に入れて一緒に燃やしてくれ」と言ったのである。その結果、好景気に沸いていた日本経済に対する反感もあって、世界中を唖然とさせただけでなく激怒させてしまったのだ。
 現在、この小型ヴァージョンが日本に残されていないにもかかわらず、このエピソードだけがバブル崩壊後の負の遺産のように、バブル期の日本における金融対策としての「印象派熱」を象徴する出来事として残ってしまったのである。
 小型ヴァージョンの最初の所有者となったショケは、日本のバブル紳士と違って決して多いとはいえない給料をやりくりし、投機対象としてではなく自分の喜びのために絵画を収集していた。ドラクロワの崇拝者だったショケは、1875年の競売会以来、ルノワールの作品にドラクロワとの類似点を見いだしていたのである。また、ショケは当時唯一といってもよいセザンヌの愛好家でもあった。 (木村泰司 『印象派という革命』 集英社 2012年)

by ephemera-art | 2018-04-16 00:00 | 国立新美術館 | Comments(0)

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モネ、ルノワールと印象派展
Bunkamuraザ・ミュージアム 公式サイト
開催期間:2004年2月7日-5月9日
主催:日本経済新聞社・Bunkamura・テレビ東京
サイズ:A4
表:右 オーギュスト・ルノワール <青い服の子供(エドモン・ルノワール> 1889年
  左 クロード・モネ <アルジャントゥイユの鉄橋> 1873年

by ephemera-art | 2017-12-16 00:00 | Bunkamraザ・ミュージアム | Comments(0)

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ルノワール+ルノワール展
京都国立近代美術館 公式サイト
開催期間:2008年5月20日ー7月21日
主催:京都国立近代美術館・オルセー美術館・読売テレビ・読売新聞大阪本社
サイズ:A4
表:ピエール・オーギュスト=ルノワール <田舎のダンス>(部分) 1882-83年 オルセー美術館蔵


 ルノワールは、40歳を迎えたころに芸術家としての行き詰まりを覚える。光の描写を追求し続けた結果、自分の絵から明確な形がなくなると感じたのだ。しかし、彼が描きたいのは、若者や女性の美しい姿形だった。そこで古典主義的な絵画を見直すためにイタリア旅行に出かけた。ルネサンス期の巨匠ラファエロ(1483~1520)の作品や、古代ローマの栄華を伝えるポンペイ遺跡の壁画に感動した彼は、自分の作品にも輪郭線を描くようになる。その端緒となったのが本作で、題材はパリの郊外にある行楽地ブージヴァルで踊る男女。女性は安価な木綿の外出着に身を包んでおり、明らかにブルジョワ(裕福な新興市民)ではない。そんな彼女が手にする扇子によって、当時、日本趣味が広く行き渡っていたこともわかる。 (島田紀夫監修 『オルセー美術館の名画101選』 小学館 2010年)

by ephemera-art | 2017-02-18 00:00 | 京都国立近代美術館 | Comments(0)

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奇跡のクラーク・コレクション ルノワールとフランス絵画の傑作
三菱一号館美術館
開催期間:2013年2月9日ー5月26日
主催:三菱一号館美術館・読売新聞社・クラーク美術館
サイズ:A3(二つ折りA4サイズ)

by ephemera-art | 2017-01-10 00:00 | 三菱一号館美術館 | Comments(0)